小学校の休み時間が5分であることへの違和感
最近、都会の公立小学校を中心に小学校の休み時間がたった5分しかない学校が増えている気がする。
この5分が休み時間には短すぎるのではと思ってならない。
休み時間が5分であるメリット
休み時間を減らすメリットは2つ。
1つは、休み時間が減ればそれだけ多くの授業ができます。
2つめは、休み時間に子どもが遊ぶ時間が削られるので、子ども同士のトラブルが未然に防げることです。
3つめは、早く下校することで習い事に早くから行く方ができます。
しかし、これは全て大人側のメリットだと思うのです。
休み時間が5分になるこたは子どものメリットになり得ると思えません。
休み時間の5分は次の授業準備をすることに消費されます。
学校によっては1分前着席をスタンダード化しているため、実質4分休みのところもあるそうです…。
休み時間10分であった頃
私が小学生の時は、休み時間が10分なのが当たり前でした。
むしろ、この休み時間のために学校に行っていたと言っても過言ではありません。
小学校の思い出は休み時間に友達と消しごむ飛ばしをしたり、ポケモンカードを自作したり、お手紙書いたりしたものばかりです。
休み時間は子どもが子どもの意思でやりたいことを決定できる唯一の時間です。だからこそ、大人になっても休み時間の記憶は残り続けるのだと思います。
多忙化の教育現場
しかし、休み時間を減らす学校側にも苦労があります。
学校現場は上から降りてくる新しい学習内容に追われています。
外国語指導、プログラミング、道徳の教科化などなど。予測不能な社会を生き抜くために子どもに つけさせるべき 能力は数々あります。それを全て学習指導要領として入れていくと、授業時間は増えざるを得ません。
子どもの遊ぶ権利を保障したい
しかし、休み時間が奪われれば子どもの遊ぶ時間も奪われることになります。
本来、遊びを通して人間は発達していきます。幼児教育は遊びを軸に教育が行われますし、遊びを通して他者との関わりが生まれて社会性が育まれます。
遊ぶ権利を保障することは、発達する権利を保障することと等しいと思います。
遊ばせずに子ども同士のトラブルを未然に防ぐことは、子どもたちが社会性を獲得すること、
つまり、トラブルをどう解決して他者とよりよく生きていくか学ぶ機会を奪ってしまうのではないでしょうか。
教師の仕事は決められたことを教えるのではなく、子どもたちを見守り、学校という小さな社会を生き抜く術を身につけることを手助けすることも含まれているのだと改めて考えます。
それを踏まえて、休み時間を減らして授業を詰め込むことは、本当の意味で子どもの発達とメリットになるのか考え続けていきたいです。
このご時世に教師になる理由
このご時世は、教師になるにおいて辛いことが多いです。
教育現場では、働き方改革にかかわって、教員変形労働制が導入されようとしています。
これはブラックと言われる教員の長時間労働を、夏休みにまとめどりすることにして、日常の勤務時間の延長を認めるというものです。
現場の教員の多くは、こんな制度になれば更に過労による病休者が増えると言っています。
忙しさの根っこにある業務量を全く削らず、教員の数も増やさないで、ヒマな夏休みに休みをまとめどりしろというものだからです。
教師は夏休みとて、今はヒマではありません。
普段の忙しさの解消にはなりません。
このようなブラックと言われる環境の中で私は教師になります。
過去の実践への憧れ
子どもたちと心を通わせ、その思いを受け止めながら互いに成長していく過去の素敵な教育実践を見ていると、教師になりたいと強く思います。
それに、常に成長し続けられ、ドキドキワクワクした子どもとのドラマチックな日常を感じられるのも教師の特権だと思うのです。
同じことを繰り返す毎日ではないからこそ、教師経験者の方々は子どもとの出来事を常に心に留め、私たちに魅力的に語ってくださらのだと思います。
そこに強い魅力を感じます。
何にでもなれる仕事が教師
「教師は何にでもなれる」というある先生の言葉がずっと心の中に残っています。
教師は学校に就職するから社会性が乏しい
なんて言われてしまうけれど、学校という小さな社会を動かしてくのも教師しかありえないのです。
例えば、
文化祭の劇では脚本家・監督になり、
ダンスでは振付師になり、
合唱では作曲家・指揮者になり、
授業ではその分野の博士になり、
時に子どもを陰から支える黒子になる。
こんなにたくさんの経験ができる仕事は、やはり教師以外ないのだと思うのです。
学校という小さ社会に彩りを与えるべく、多様な専門性が身についていくこともとても魅力的です。
このご時世に教師になるわけ
子どもとこんなに近い距離で接せられ、かつ、こんなに子どもの心に残り続けられる仕事は教師以外ないと改めて思うのです。
しかし、教師になるからには今の労働現状を打破するよう努める必要があると考えます。
子どもが1番長く接する「社会にいる」大人は教師なのだから、その教師が青白い顔で働いていては、子どもの将来を暗くしてしまうのではないでしょうか。
子どもも教師もより良く学校で生き、そして 明るい未来を築くためにも、たくさんの先輩方のように私も戦っていきたいと思います。
実習生に向けて教材研究でやるべきことを語る
教師になるには避けて通れない、教育実習。
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塾で一番大変なのは勉強の目的を持たせること?
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タイトルになっている『窓側の、一番後ろの席』について。
誰に言われたでもなく、窓側の一番後ろの席は人気。
なぜでしょうか?
・授業中に遊んでいてもばれにくい
・寝ていても怒られにくい
・友達と話していても教室に響かない
・窓の外をぼーっとみて暇つぶしできる
などなど、理由はたくさんあります。
これらに共通していることは、授業という決められたことから逸脱して、自分のやりたいことができることです。
授業に参加するには頑張らなきゃいけない
学校の授業は生徒とか先生とかいろんな人との関わりから生まれる。
でも、人と関わることは疲れちゃう。
授業を受けると、知らなかったことと向き合わなければいけない。
すると、心も頭も疲れちゃう。
よく、学校は小さな社会だと形容されます。それならば、授業はなんでしょう。社会の中で生きていく実体験を積む機会でしょうか。
だとしたら、人と関わることや何かを解決することの疲れを感じることにも納得がいきます。子どもながらに感じた授業の疲れは、大人が社会で感じる疲れに似通っているのでしょう。
自分らしさをちょっと取り戻せる場所
窓側の、一番後ろの席は先生の監視がちょっとゆるい。だから、社会という名の授業に合わせなくてもいい。
ちょっとだけ自分の好きなことができちゃう特別な場所なんです。
窓側の、一番後ろの席から
子どもと関わる大人になるからこそ、子どもの心を忘れないようにしたい。
大人である自分を俯瞰できるような、そんな意味も込めてブログのタイトルを決めました。
まずは、自分の思いを伝えられるよう、これからも文章力の向上に励んでいかねば…
はじめましてのあいさつ
はじめまして。ひなざきです。来年から小学校の先生になります。
でも、すっごい不安です。
自分が子どもの心を忘れた教師になるかもしれない。
子どもを恐怖で支配するような教師になるかもしれない。
子ども側に立ち続ける教師でい続けるために、自分の思考と信念を書き留めるブログをはじめようと思います。
専攻は臨床教育学です。他にも、保育とか社会福祉についても学んできました。
これらを学んで、子どもだった自分の持つ生きづらさの原因がわかりました。
子どもだった自分に語る気持ちで書いていけたらステキだな…と。
まずは、 学生から教師の立場になるまで、できる限り書くことを第一の目標にします。
個人的視点が強めに効いた文章になりそうなので、温かい心で読んでくださったらうれしいです。いっぱい書いていきますので、宜しくお願い致します。
では、また明日。